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イブ氏のインタビューで印象に残ったことは「私のガンはコンゴの女性の悲惨さに比べるとまだまし。なにしろ、私には周辺から「早く治って」という励ましや関心があり、それが最大の治療薬になっているから。コンゴの女性は世界から忘れられている。ボスニアの女性も以前同じ目にあったが、世界からの関心があったので1年半で解決された。コンゴではその意思がないため、13年も女性が苦しみ続けている」と目を少々赤くしながら、話していたことでした。
関心の問題に関しては同感です!7月30日から8月3日までコンゴ東部のある村で約150-200人の女性が集団レイプされた事件で、コンゴの国連平和維持軍(PKO)の信頼はなくなっただけでなく、市民への無関心さが再び浮き彫りにされました。その村の近くにPKO軍の基地があり、その村がコンゴとルワンダの武装勢力(=性的暴力の加害者)に支配されているとわかってながらも、PKO軍は3週間も何の行為をとらなかったそうです。それは「住民がレイプのことをPKO軍に教えてあげなかったから(言わない方が悪いんだ)」だとか。そしてこの対策として、PKO軍はパトロールを強化すると国連事務総長代表は話していました。
1.ガルトゥング博士が広島の原爆投下のことを「虐殺」だと呼んだこと。ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺後の1948年にジェノサイド条約が定められたのですが、それによると、ジェノサイドは一つの人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する抹消行為をさしています。しかし女性や子供を無差別に殺戮した時点で、生殖の強制的な制限を含んでいる(将来の子孫がつくれない)ために、ガルトゥング博士は定義を拡大して虐殺だと呼んでいるのです。(これに関しては近いうちに本が出版される予定) 。なるほど~!ルワンダ虐殺の研究はしていますが、広島・長崎のことを虐殺と呼ぶことがないので、大変新鮮であり、考えさせるきっかけとなりました。
2.人権や民主主義の保障が必ずしも平和をもたらさないこと。その例が、アメリカ、イギリス、イスラエルとオスマン帝国だとか。これらの国々の共通点は「自分が常に正しく、他は間違っている」という信念があり、これらがある限り平和は来ないというのです。自分の国が中心に世界がまわっていると信じ、何か不都合なことがあると他の国々のせいにし、自分たちの行為を反省しないのです。もっと謙虚になり、かつ聞き耳を持たなければなりません。
3.ピース・アクテイビスト等は単に「反戦」「反XX」と唱えるのではなく、反戦の後何をしたいのかを考えた上でいろんな方法で問題解決に向けて提言をしなくてはならないこと。我々は今だけを見過ぎて、将来図、ビジョンや夢を描くことはなく、あまりにも創造生に欠けています。学者は理論的すぎて実用的でない論文を発表して自己満足で終わるのではなく、豊富な知識を活用して紛争解決などに貢献していただきたいですね。
ガルトゥング博士は「アメリカ帝国は滅びる」という題名の本を出版したリ、「米軍基地の撤退が主張できないようでは、日本は独立国家ではなく、侵略されている国家だ」と発言し、過激派だと取る人もいるかもしれませんが、このような意見は社会改革のために必要だと思います。ガルトゥング博士は著書やメデイアを通じてメッセージを発信するだけでなく、演劇(脚本)もつくる予定だとか。今年で80歳になるのに心身ともに若く、刺激を受けました。今回のワークショップに呼んでくれた京子さんに感謝!本当にありがとうございました!
ルワンダの首都キガリでは、新しい安全対策がとられているとのことです。ホテルでは所時品検査がされ、バーでは停電に備えて発電機を備えなくてはいけないことに(これって、7月11日にウガンダの首都カンパラであった爆弾テロがバーであったから?)。ルワンダ政府軍によると、先週選挙後にキガリであった手榴弾事件は、亡命中の元軍人がウガンダとタンザニアの協力の下関与していたらしく、そのための対策だと思われます。私の友人も含めキガリに行く・滞在する日本人は多く(ルワンダ政府によると年間1500人!)、注意する必要があります。
本当に亡命者がこの手榴弾事件を仕掛けたかどうかはわかりませんが、一つはっきりしているのは今のルワンダでは不信感が漂っていることです。紛争後の国を再建するためには、単にインフラや教育・医療のサービスだけでなく、国民間、あるいは政府と国民間の信頼醸成(confidence building)が必要なのですが、残念ながらそれが見られません。
この安全規制で、8月9日付け朝日新聞の勝間和代さんのコラム「人は誰かに好かれると、 その人に好意を持つ~好意の互恵性の法則」を思い出しました。その法則は「人は誰かに好かれると、その人に好意を持つ」ということで、その逆の敵意についても、そうなるといわれているとのことです。そして「安定した社会を実現するためには、家庭内の愛情の健全な育成や、偏見や差別を作らないような社会の規律が必要不可欠なことを、この法則は教えてくれると思います」と勝間さんはつづっています。
全く同感です!この法則を読者と共有してくださった勝間さん、ありがとうございます!上記にルワンダ政府と亡命者間の緊張感について書きましたが、現政権内でも同様で、好意どころかどんどん敵意がルワンダ国民に広まっています。このままではまた紛争に逆戻りするのではと恐れるぐらいです。私がルワンダ政府にアクセスがあれば、この法則を「プレゼント」するのですが。。。余計なお世話だと言われるかもしれませんが、真の友人であればそれぐらいやらないといけないと思います。
http://www.whitehouse.gov/the-press-office/2010/08/13/statement-national-elections-rwanda
「民主主義は単に選挙を実施することだけではない」と批判をするのは当然ですし、Democracy Now!は「カガメ大統領を支持するアメリカ政府がこんな声明を出すのは驚きだ」と述べていましたが、あまりにも遅すぎたと思っています。
ルワンダの野党3党が出馬できないとわかった6月時点で、あるいはルワンダ人のジャーナリストや野党などがどんどん殺害・逮捕・亡命し始めた今年初め、「おかしいぞ」と本当にわかっていたなら、その時に批判ができたはずです。アメリカ人の弁護士アーリンダー氏も5-6月に不法に逮捕され、国際メデイアがそれに関して何回も取り上げたのにもかかわらず、同政府は何の声明もだしませんでした。それどころか、「アーリンダー氏はもうルワンダから出国したかと思っていた」とアメリカ大使館はしらじらしく言い、彼の逮捕中、何の助けもしなかったのです。
ですから選挙後に、過去を振り返って「こうすべきだった」と非難しても、単なる形式だけのリップサービスにしか聞こえません。まあ、そもそもアメリカ政府は民主主義を本気でアフリカにうえつけようという政治的意思に欠けているため(混乱状態にあった方が資源が搾取・密輸しやく、その方が権力国にとって都合がいいため)、仕方ないのかもしれませんが。これは今に始まったことでなく、アフリカの諸国が独立する50年前からのことです。アー何ともきたない世界!
http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/ed20100816a1.html
「カガメ大統領がルワンダに正義と成長をもたらしたと認めてもらうためには、彼は憲法を尊重しなければならない」と書いています。同感です!カガメ大統領は今2期目に入りましたが、他のアフリカの大統領のように(例:チャドのデビ大統領、ウガンダのムセベニ大統領、そしてジンバブエのムガベ大統領。ナイジェリアのオバサンジョ大統領やザンビアのチルバ大統領もこれを試みたが、失敗した)、憲法に書かれている任期を変えて権力を増大しないことを願っています。
ルワンダでは大統領は2期までと憲法と決まっており、いろんなインタビューでカガメ大統領は「まさか他のアフリカの大統領のように、3期以上いないでしょうね」と聞かれる度に、「なぜそんなことをしないといけないのか。大統領の地位にいなくても、他の形で貢献できる」と答えていますが、7年後の選挙にならないとわかりません。
一般的に現職の大統領がその地位にしがみつく理由の一つに、戦争犯や人道に対する罪などの裁判の免除特権が現役元首に認められていることが挙げられます。特例のケースとして、スーダンのバシル大統領がダルフールでの民族浄化に関して国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状を請求されましたが、ICCが現職の国家元首の訴追を検討するのは初めてです。
2006年11月17日に、パリ大審裁判所のブリュギエール判事は1994年の4月6日のハビャリマーナ大統領機墜落事件にRPF(現政権)のメンバーが関わっているとして、彼らに国際逮捕状を発布しました。しかし、フランスの法律では、現役元首は裁判の免除特権が認められるので、カガメ大統領には訴訟できなかったのです。同様に、スペインも2008年に、ルワンダにおいて1994年から2000年の間に戦争犯や人道に対する罪に関わっていた人40人を起訴すると言明したのですが、カガメ大統領は免除されたのです。
大統領も人間なのですから、戦争犯の罪などに関わっているなら、一般市民のように起訴されるべきですよね?そんな法律をがあるから、死ぬまで大統領の地位にしがみつく人が増え、罪のない市民が殺されるわけです。この法律、何とかならないの?
「マンデラ氏のアフリカ女性」
と呼ばれているのですが、私は
「アウン・サン・スー・チー氏のアフリカ版」
と呼びたいと思います。
今年1月にインガリベ氏は16年ぶりに亡命先のオランダからルワンダに帰国して以降、国内外で大変注目を浴びています。彼女は、世界でルワンダにしか存在しない「虐殺イデオロギー」法の罪を犯したということで、4月に逮捕ー>自宅軟禁になり、彼女の弁護士も外国人であろうとルワンダ人であろうと逮捕されています。同じ党のメンバーも逮捕・行方不明になっています。この「虐殺イデオロギー」法は、国際社会からあいまいでおかしいと批判されているのですが、権力国でルワンダを支持しているアメリカとイギリスはこれに関して沈黙。。
インガリベ氏のパスポートは政府から没収されているため、オランダにいる夫と子供3人と会えなく、かつ毎日のように政府から死の脅迫を受け、大変孤独で恐怖心に包まれた生活を送っています。自分の安全のために家を転々と回ったり、党の記者会見をいろんなホテルで開きたくても、「安全の保証がないので」断われるそうです。あるインタビューで、「私は母国で独裁者の犠牲者になっている」と言っていました。それにも負けず、毎日のように情報を発信し、「インチキな大統領選挙を認めるな」などと拠出国に呼び掛けています。
ちなみに私はビクトワール氏が率いるFDU党の支持者ではありませんが、軍事独裁国家のルワンダで非暴力で闘う彼女に脱帽しています。彼女が一日でも早く自由の身になり、ルワンダの政治に関わることができるよう祈っていますが、残念ながら、今の政情からして近い将来実現されないようです。
今朝起きてtwitterをチェックすると、キガリで昨夜手榴弾事件があり、子供を含む数名が傷を負ったと。キガリで起きた手榴弾事件は今年で4回なのですが、どれも政治的要素が絡んでいて、特に今回は「世界で最も不均衡な大統領選挙」(The Christian Science Monitor)の直後なので、選挙に不満であった人たちが仕掛けたのではないかと言われています。
ついでに日本のメデイアはどのようにこの手榴弾事件を報道しているのかTwitterで確認すると、誰もいませんでした。ということは、日本で私が一番乗り?検索しても、「カガメ大統領が圧勝」としか書いていません。例として、NHKの報道を下記に載せてみました。
「ルワンダ大統領 カガメ氏再選
8月12日 6時9分
アフリカ中部のルワンダで大統領選挙が行われ、80万人が死亡した大虐殺のあと民族の融和を進めた現職のカガメ大統領が再選を果たし、今後はアフリカ屈指の高い経済成長をいかに維持していくかが課題となります。
ルワンダの大統領選挙は、現職のカガメ大統領ら4人が立候補して9日に投票が行われ、選挙管理委員会は11日、カガメ大統領がおよそ93%の得票率で当選したと発表しました。ルワンダでは、1994年、民族対立が激しさを増し、国民の7分の1に当たるおよそ80万人が死亡する大虐殺が起きました。このため、2003年の大統領選挙で初当選したカガメ大統領は、出身部族を示す身分証明書の廃止など民族の融和に努めたほか、汚職の取締りを強化して国の再建に力を入れました。また、コーヒーなど農産物の品質向上や観光に力を入れて経済を立て直し、10%以上の経済成長率を実現したほか、開発援助を通じて日本との関係も強化し、日本政府は、ことし1月、首都キガリに大使館を開設しました。再選を果たしたカガメ大統領の任期は7年で、国内のインフラ整備や貧困対策を進めながら、アフリカ屈指と言われる高い経済成長をいかに維持していくかが課題となります。」
これをよーく読むとわかりますように、ニュースの中心は経済成長で、選挙前に起きたジャーナリスト・野党・被告側弁護士の殺害・逮捕・亡命や表現の自由については一切触れていません。これでは読者に誤解を与えるのは当たり前ですよね。同情心からでもいいので、同じ職業のジャーナリストがルワンダで命をかけていることなど伝えてほしいです。それにしても、この手榴弾事件の後に何が待っているのでしょうか。恐ろしー!これ以上罪のない一般市民の間に犠牲者が出ないことを願っています!
http://www.institut.jp/ja/evenements/10189
ところでルワンダの大統領選挙ですが、有権者の中には、投票日の早朝3時以降政府軍などに叩き起こされ投票所に行かされたとか。それを知ってあるいは知らないのか、アメリカや英連邦の選挙監視団は「投票は静かに問題なく行われた。人がたくさん投票所に集まった」とのんきに述べていました。有権者がどのような目にあっているのか、本当に分かって言っているのかしら?
私も以前カンボジアや南アで選挙監視をしたことがあるのでわかるのですが、我々外国人は投票日当日、あるいはその前後に投票所周辺で起きていることしかわからず、それだけで「free and fair」な選挙であったかを決めつけるのですね。しかし選挙は一瞬で終わる「お祭り」であり、選挙前に何が起き、その後に起こるであろう政情を計算した上で、評価する必要があります。まあ監視団は政府の役人という立場上、本音がなかなか言えないという事情もありますが。そもそも、今回カガメ大統領が不正して圧勝することが予想されていたのに、監視団を派遣する意味は本当にあったのでしょうか。結局「free and fair」の評価は、有権者が最適ですね。
そうそう、ベルギーで行われた、ルワンダ人などによるルワンダの選挙のシムレーションがyoutubeに載っていたので、今朝観てしまいました。仏語ですが、現政権が有権者にカガメ大統領に投票するよう脅かす演技があるなど、なかなかリアルで迫力があるので、ぜひ観てください。
http://www.youtube.com/watch?v=hJGuXliI3Kw
今日は映画「スタッフ・ベンダ・ビリリ」の試写会を観て、エキサイトしてしまいました。私は2001‐3年にこの映画舞台であるコンゴの首都キンシャサにUNHCRで赴任され、また1999-2000年にコンゴ西部、そして2007-8年にコンゴ東部に赴任されたとき、時折キンシャサに行き来していたので、なつかしく思いました。でもそれだけでなく、ベンダ・ビリリというバンドの音楽が大変パワフルで、元気と勇気を与えてくれます。皆さんにもぜひ観賞をお勧めます。
このコンサートに関しては
http://bendabilili.jp/concert.html
そして9月から上映される映画に関しては
http://bendabilili.jp/movie/
キンシャサについていろいろ話したいことがあるのですが、ここでは一つだけ書きたいと思います。キンシャサに赴任中、私は両親を招待したことがあり、キンシャサ市内と郊外、そしてコンゴ西部にある難民キャンプに案内をしました。これを周りの人に言うと、相手がコンゴ人でも日本人・外国人でも(またUNHCR職員でも)かなりびっくりされるのですが、自分の勤務地、そして自分がオープニングに関わった難民キャンプを見せることは、一種の「親孝行」としてフツ―にとらえていました。それを言うと、ますますびっくりされるのですが。。。
といってもキンシャサには美術館も博物館といった観光らしいところがないので、どこに連れて行こうか正直迷いました。ボノボの孤児院に行ったり、服の仕立て屋さんでコンゴ風の服をオーダーしたリ、「ドロボー市場」と言われるお土産さんの市場でコンゴの素晴らしい民芸品を買ったり、コンゴ川を見ながら新鮮な魚料理を食べたり、活気溢れる下町の屋台で揚げた虫を食べたり(そのせいか、その数日後、母は寝込んでしまいました。。。。)といった日々を過ごしました。
キンシャサから西200kmにある難民キャンプに行った時は、難民が両親を大歓迎してくださいました。「あなたの両親ということは、我々の両親でもある」と言うのです。なんて素晴らしい言葉!あなたのものは我々のものという、アフリカ人の共有する心は大好きです!そのキャンプには、私の名にちなんで「レストラン・ママ・マサコ」があったのですが、そこのオーナーが両親のために昼食を用意してくれ、また難民らは両親に民芸品のプレゼントまでくれました。今思い出すだけでも涙が出てきそうなぐらい暖かく迎えてくれ、大変感謝しています。
そう、そのコンゴ人のホスピタリテイ-やサバイバル力も「スタッフ・ベンダ・ビリリ」から伝わります。ぜひご鑑賞を!
話は変わりますが、先週の週刊誌Jeune Afriqueに、ルワンダの大統領選挙の特集があり、コンゴ人の有名な歌手のコフィ・オロミデ氏のことが書いてありました。彼は7月20日にルワンダで開始した選挙キャンペーンでカガメ大統領を支持するために「カガメ、オイェー」と叫んで観客席を盛りあげ、10万ドルの大金の謝礼をもらったそうです。
このようにコンゴ人の歌手が隣国の選挙キャンペーンに登場するのは珍しくないのですが(ところで、他の大陸ではこんなことあるのでしょうか?)、コフィ氏は完全に政治にはまっています。何しろ、彼は以前コンゴの大統領選挙の際も、同じようにカビラ現大統領の支持をしていたのです。カガメ大統領とカビラ大統領は親分ー子分のような関係なので、おそらくコフィ氏は今回カビラ大統領から「カガメ大統領を応援するためにルワンダに行って来い」と押されたのでしょう。10万ドルの現金も、拠出国からの援助なのでは?と疑問に思ったのは私だけでしょうか。
ついでなので、あともう一つ、カンボジア人の人権活動家が1997年に殺害されたことを2日前のブログに書きましたが、今日「ジェノサイドの丘~ルワンダ虐殺の隠された真実」(著者フィリッピ・ゴーレイビィッチ氏、2003年、WAVE出版)を読んでいると、
「カンボジア人の死体は首を完全に切り離されていた」(p.229)
と書いていました。
ぎょっ!先月14日にも野党の副党首が殺害されていたのですが、彼も同じような殺され方をし、それを思い出してしまいました。このような殺し方をするということは、よっぽど憎らしい理由があったんでしょう。ルワンダでこれ以上殺人(そして、亡命、不法逮捕など)があってほしくないのですが、選挙後どうなるか本当に本当に心配です。
先週は大学の仕事等などでしっかりルワンダの報道を見ていなく、昨日まとめて見たのですが、カガメ大統領といい、ルワンダ人の亡命者の恐ろしい言葉に凍りつきました。
2007年11月に南アに亡命したパトリック・カレゲヤ前軍事諜報機関長[1994-2004年;「しつけの欠如」で2004-5年18ヶ月間逮捕され、2006年7月13日に大佐の肩書が剥奪される)は、ウガンダのThe Observer紙やBBCのインタビューで、「(カガメ大統領のような)独裁者は自ら降りることはない。自由を確保するためにルワンダ人自身が立ちあがって闘わないと。カガメ大統領の限界点はもうすぐ来るだろう」「カガメ大統領は敵を殺すことを信じている。過去に政治的に亡くなった人は大勢いる」と答えているのです。
諜報機関長であった彼は、カガメ大統領が関わってきた行動や彼の弱みも十分知っているはずです。カガメ大統領の限界点はもうすぐ来るということは、何かを企んでいるのでしょうか。
そして先週、カガメ大統領は選挙キャンペーンの時に、「我々の政権を不安定化したい人は鎮圧する」「現政権を批判する者は首をつれ」「ハエを殺すのに金づちを使う(ルワンダ人ジャーナリストはこれを「野党を殺す」と解釈)と言っています。おそらくカレゲヤ氏へのメッセージなのですが、体が震えるぐらい怖い!
このプログで何回も取り上げたように、過去にルワンダ内外で謎の殺人事件や亡命があり、また今回国家のリーダーがこのような暴力的な言葉を公の場で使っていることは大問題だと思うのですが、国際社会は何とも思わないのでしょうか。外国のメデイアはかなり毎日のように批判していますが、日本のはまだまだ。アフリカ連合も国連も各国政府も相変わらず口を閉じたままです(イギリス国会では多少ルワンダへの批判はあったのですが)。
カガメ大統領は民主主義の問題について聞かれると、口癖のように下記のように答えます。
「個々の国がそれぞれあった民主主義を見つけるべきだ。他国が「これが民主主義だ」とルワンダに押し付けることはない。我々は西洋諸国から何も学ぶものはない」
94年の虐殺の際に何の介入もしなかった西洋諸国の政府や国連は、これに対して何も反論できなくなるのです。これだけルワンダ人の命が亡くなり、彼らが恐怖心に包まれているというのに!あきれるやら、情けないやら。私は紛争予防を勉強し、それには早期警告(early warning) の重要さを訴えているのですが、これだけ悪化しているルワンダの現状ははっきりとした警告であります。それに何の反応を示さないのは、正直言って、人間は愚かな動物だとしか言えません。(だから私はいつも学生に「理論と実情は違う」と言っている)
それにしても上記のカレゲヤ氏といい、彼の同僚でこの6月に暗殺未遂にあったニャムワサ氏といい、南アでどのような亡命生活を送っているのでしょうか。どう安全を確保しているのか、生計をどのように立ているのか、テイーンエイージャーであろう子供たちは学校に行っているのだろうか、と他人事ながら心配です。さらに、ニュムワサ氏は戦争犯としてスペインから逮捕の令状をだされているため、余計に状況は複雑です。南アはこの二人を匿っていることで、南アとルワンダ間の関係はぎくしゃくしており、これから注目すべきです。
明日の大統領選挙はどうなるのか?まあ、このような状況なので、カガメ大統領の圧勝は目に見えますが、その後が気になります。ルワンダのムシキワボ外務大臣は「選挙前だから熱くなっているだけ。選挙後は安定します」とクールに言っているのですが、残念ながら私はそのような希望は持てません。
追伸:
南アの話が出たので、ここで少し私の南ア体験について書きたいと思います。
私は南アに留学している時にコンゴの研究をしていたので、コンゴの亡命者何人か会ってインタビューをしたことがあるのですが、アフリカ人にとって(特に中央部アフリカ)南アはいい亡命先かもと思いました。2008年にアフリカ難民や亡命者への差別事件がありましたが、上記のカレゲヤ氏が言うように、「ウガンダ(などの東アフリカ)は近すぎるけど、南アはちょうどいい近さ」であるし、情報も入ってきます。
南アに留学する前には、UNHCRの同僚から「なんでまた南アで?」「日本、アメリカやヨーロッパで研究すればいいのに」「そんなところで修士をとっても昇進できないよ」とボロボロに言われたもんです。でもアフリカの政治や紛争を研究するならば現場に近いところ、そしてコンゴ紛争を研究するならば、それに良くも悪くも影響を与えた南アで研究するのが最適だと思っていたので、そのようなコメントを無視しました。その時は、南アはアフリカ難民の中心部ということを知っていたのですが、それが自分の研究に役に立つとは思っていませんでした。
コンゴに3年勤務した後に南アに留学したのですが、難民や亡命者からコンゴの違った側面が聞くことができて大変勉強になりました。コンゴ内では政府批判はできませんが、国外では自由にできます。そして、アフリカのように歴史が西洋諸国から意図的に消されているところでは、オープンに話ができる人から話を聞くしかない場合もあります。理論でなく、アフリカの生々しい政治を学びたい方は、(もちろん大学や教授にもよるが)ぜひ南アへの留学を考えてくださいね!
私はルワンダに行く数年前にカンボジアで1年間活動していたこともあり、また、たまたま殺害されたこのカンボジア人男性サットラさんに殺される前に一回会ったことがあるため、彼の死は衝撃的だったのを覚えています。彼は国連ボランテイアの地元のボランテイアとして、カンボジアで人権活動に関わり、その後ルワンダに国際ボランテイアとして採用されていました。大変明るく、リーダー的な存在で、彼の将来は希望に満ちていました。私がカンボジアにいた93年に同僚の中田厚仁さんが殺害され、日本でも大きく報道されましたが、サットラさんは厚仁さんと同じタイプの人でした。
(ちなみに、その後、彼の死に関しては朝日新聞が記事を載せたが、それは現地で取材されたものでなく、カンボジアの遺族に取材したものであった)
ルワンダ関係の本を何冊か読んでいますが、サットラさんや彼の同僚の死に関しては触れることはほとんどありません。彼らが目撃したもの、あるいは書いた報告書があまりにもセンシテイブであったからでしょうか。いま思い出せば、当時ルワンダにいた国連人権高等弁務官事務所の職員は積極的に活動できないと嘆いていたのを覚えています。この国で何が起きてきたのかを分析するために、このような事件を時系列に記録することの重要さを改めて実感しました。
私は若者に国際協力の場で活躍してもらいたいと願っており[またそのように学生に促しているのですが)、法学部生にも将来国際刑事裁判所や国際ルワンダ戦争法定(ICTR)のような場でで働くことを目指してほしいのですが、リスクを相当覚悟した方がいいかもしれませんね。実際に、ICTRで働くdefense lawyerは現在逮捕されたり、殺されたりしています。でもだからこそ、やりがいはあるでしょうね。
それはともかく、今年の原爆の記念式典では、アメリカ大使と国連事務総長が出席し、世界から注目を浴びました。しかし前者はスピーチも献花もせず、式典後さっさと東京に帰り、被害者は「何のために来たのか」「今頃来ても遅い」と憤慨していました。私も失望しました。
原爆は政治の問題なので、いくらオバマ大統領が式典に出席して謝罪をしたいと望んでいても、簡単に実現できないでしょう。しかし原爆から65年たち、被爆者はどんどん亡くなっています。我々が一般的に知っている被爆者は語り部をする人が多いのですが、中には外出も語り部もしない「影の」被爆者もいます。彼らは「気持ち悪い」と周辺から差別され、結婚もできず、一生孤独感を抱えながらひっそり生きています。かわいそうに、親以外に人の愛情もぬくもりもほとんど知らないまま亡くなっていることを想像すると胸が痛くなります。
韓国人の歴史学者ハン・ホング氏が「平和構築の第一歩は他人の痛みを自分のものとして受け止めることから始まる」と述べていましたが、本当にその通りだと思います。平和構築や復興を 「民主主義、インフラ整備、経済成長など」と考える人がいますが、そのような外見的なサービスだけでは、被爆者(被害者)の痛みを取り除くことはできません。私は被爆者のことを詳しくわかりませんが、難民などと話していてそれがよく理解しました。我々はもっともっと被害者の痛みを想像し、彼らのニーズを考えるべきではないでしょうか。
http://www.humanrightsinitiative.org/publications/hradvocacy/rwanda's_application_for_membership_of_the_commonwealth.pdf
一般的に「国境なき。。」といえば、「国境なき医師団」「国境なき記者団」など人道、あるいは人権上の理由で活動している美しいイメージがありますし、(株)イーウーマンの佐々木かをり社長もいろんな所とコミュニケーションがとれる「国境なきシェア団」をつくるのが夢であったと語っていました。しかし「国境なき兵士団」は反対にネガテイブなものです。何しろ隣国に不法に入り(まあ、「国境なき医師団」も緊急の時にビザなしで入国する時もあるのですが、理由が全く違うので比較できません)、難民や市民を何十万人殺害しただけでなく、天然資源も搾取していたからです。そして残念ながら今も続いています。日本軍も昔は同じように「国境なき兵士団」であったので、他国を批判できませんが、そのような国の国民としてもう二度と戦争を繰り返してほしくないと望んでいるからこそ、ルワンダにも同じような行動をやめてもらいたいものですね。
http://en.rsf.org/rwanda-around-30-news-media-closed-a-few-02-08-2010,38076.html
http://www.hrw.org/en/news/2010/08/02/rwanda-attacks-freedom-expression-freedom-association-and-freedom-assembly-run-presi
http://www.centralafricanstudies.com/2010/08/rwandas-paul-kagame-center-of-controversial-election/
このヒューマンライツウォッチは時系列にルワンダで起きた事件を追っていますが、実は私も7月20日時点で同じような表を作り(もちろん日本語で)、その上過去に起きた事件、そしてこの事件の背景にある「虐殺イデオロギー」法などをまとめ、関係者に「警告」という意味で発信しました。(このブログにも載せたいのですが、その方法が知らないため、いまだにできない。。。その表を欲しい方はコメントしてくだされば個別にお送りします)
その表にエネルギーを浪費した割には、あまり大きな反応はなかったのですが、先日ルワンダの現状について聞きたいというあるジャーナリストと初対面したとき、その表を見せたところまじまじと見て、「詳細がたっぷり入っていて、これはすごい!」と喜んでくれました。そして熱心にいろいろと質問をし、話も弾みました。ジャーナリストだけでなく、いろんな人に会っていますが、心の底から関心があって何とかしたいと真剣に思っている人と、単に仕事のために淡々とやっている人の違いが大体わかります。上記の方はまさしく前者で、こちらもうれしくなりました。
そのジャーナリストと面会する数日前に、NHKの「ようこそ先輩、課外授業」という番組(私の大好きな番組でいろいろ勉強させられます)を見たのですが、元プロ野球選手の赤星憲弘氏が登場していました。盗塁が得意であった彼は、子供たちに「盗塁で一番大切なのは何だと思う?」と聞き、「足の速いこと」等の答えがある中、ある生徒は「気持ち」と答えたのです。なんと素晴らしい!
そう、技術も大事なのですが、それ以上に重要なのが「やってやろう、学んでやろう」という気持ちであり、関心なんですね。その番組で、最初盗塁できなかった生徒たちが練習を重ね「絶対できる!」という励ましが「盗塁してやろう」という気持ちにさせ、最後は全員が盗塁できました。感動です!上記のジャーナリストもルワンダに行ったこともなく特にルワンダの専門家ではないのですが、学びたい、そしてその現状を伝えたいという気持ちは強くありました。
大学で「英語に自信がない」とこぼす学生に、私はいつも「愛嬌と度胸で話したら大丈夫!心でコミュニケーションするように!」と励ましています。実際に私のフランス語も愛嬌と度胸で乗り越えており、フランス語圏の人たちも「文法は時折間違っているが、君のフランス語はよく理解できる」と優しく言ってくれているので、いい気になってますます文法を勉強しなくなりました(単なる言い訳、、、)。いくら正しい発音できれいな外国語を話しても(=技術があっても)、気持ちがこもっていなければ、聞いている方はよく思いませんよね。ですから、学生たちもその学ぼうとする気持ちを大切にし、英語なり他の勉強に励んでもらいたいものです。
その理由の一つとして、一般的にアフリカの発展を語る際に、経済成長、紛争、民主化、貧困やエイズだけに焦点を置き、人権問題は全く無視されているからだと思います。ルワンダではインフラ、観光産業、コーヒー産業だけでなく、教育機関や医療機関などの公共サービスもまずまず充実しています。昨年、世銀はルワンダを最も進歩した国と言っており、日本からも毎年1500人がルワンダを訪れています。2001年以降経済成長が毎年平均6%上昇しており、アフリカで最も安全な国の一つであるルワンダを、国際社会はアフリカのリーダー的な存在として認めています。だから、「ルワンダは大丈夫、もう自立している」と勘違いしているのでしょう。実際にいろんな人にルワンダにおける悪化している現状について話すと、「そんなこと初耳だ。知らなかった」とかなり驚いています。
ある欧米の外交官は「ルワンダには民主主義はないが、アカウンタビリティー(accountability)はある」と言っており、これには頷けます。ここでいうアカウンタビリテイーとは「説明責任」ではなく、「当事者が目標達成にむけて、問題の解決策を見出し、それを実行しようとする意識を持つこと」です。ルワンダ人はけじめがあって勤勉で、だからこそ上記のような「外見のサービス」は発展したのですが、それと同時に人権のような「心(精神)のサービス」も充実しなければ、真の民主主義、そして平和と安定が来たとは言えないでしょう。その視点からルワンダをはじめ、アフリカの諸国を見る必要があると思います。
今日は日曜ですので、固い話でなく、アフリカの食生活について話しましょう。
というのは、先週の週刊誌Jeune Afriqueに、アフリカの肥満に関する特集があり、アフリカの食生活について考えさせられたからです。それによると、エジプトでの肥満が一番ひどく、南ア・ボツワナ・アルジェリアがそれに次いでいます。確かに太っているのが女性の美だと信じて、モーリタニアのように無理やり独身女性を太らせるところもありますが、「ポチャ」のようなかわいさならともかく、「本当に太っている(あるいは肥満体)」は病気です。後者に関しては、不健康な食生活から来ていることが多いです。
アフリカは54カ国あるので一般化できませんが、アフリカ約30か国に勤務(出張も含む)・留学・旅行した経験から、アフリカの食事はあまりにも不健康と断言できます。食用油をたっぷり使う(それが食事をおいしくさせると思いこんでいる)、炭水化物の量が多くおかずが少ない(しかもそのおかずが1種類しかない!)、野菜はどろどろになるまで煮る(=栄養がなくなった状態になる)、肉類はよく食べる(チャドの地方では朝から晩まで肉だけ食べる!)、コカコーラなどのソーダ水をよく飲む(しかも赤ん坊にさせ飲ませる!)などなど書き出したら止まらない。。。アメリカ人のような肥満体は南ア以外では見たことがありませんが、一回コンゴ共和国の田舎で肥満体のカナダ人のNGO職員がいました。彼女にはナイジェリア人のパートナーがいたのですが、地元の人は「彼女は一体どうやってセックスをするの?」といつも興味津々でした。
この不健康な食生活の原因は、健康的な食料がないというより、単なる無知と主体性の問題です。コンゴのように果物がたくさんあるのに、それでジュースを作らない、あるいは加工して売ったらいいビジネスになるのに、輸入品のソーダ水にばかり頼るといった傾向が強かったのです。コンゴ東部では火山灰があり新鮮な野菜が豊富にあるのに、野菜は外国人が多い地方都市のゴマに運ばれ、野菜の出産地では「我々はこの野菜をどのように料理したらいいのかわからない」とこぼし、そこには栄養失調の子供がいるのです。何て皮肉なことでしょう。
という私も中高生のとき栄養に関しては全くの無知で、ピザやハンバーガーのようなファーストフードをよく食べ、コカコーラをガブガブ飲んでいました。その頃の食生活を思い出しただけで、気持ちが悪くなるほどです。当時父親の仕事で私はアメリカにいたのですが、周りが食べるのでそれが当たり前になっていたのです。スポーツもしていたのですが、食生活が悪かったために、私の体重は一時60キロ台、ウエストも70センチ台でした。でも周りに体が大きい人が多かったので、自分の体つきを特に気にしていなかったのです。
日本に帰国し周りから「太ったね」と言われたのがきっかけで、食事を日本食に変えて、心身的にすっきりしました。それから栄養の勉強も多少し、野菜中心のヘルシーな食事を心がけています。
アフリカ各地では、日本では1日30種類のものを食べること、チップス(フライドポテト)等を揚げる時食用油は少量でもできること(=栄養にもいいだけでなく、家庭にとっても経済的)、野菜の皮には栄養もあるので捨てないこと(=生ごみが減る)など現地人に伝えました。もちろん口頭だけでは理解できないことが多いので、簡単な料理教室を開くと、かなり納得したみたいです。これからこのような「知恵や経験の共有」を続けなければ!私もアフリカから学んだことがたくさんあるので、これこそ相互の協力ですね。
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過去にリベリア、南ア、ソマリア、タンザニア、ルワンダ、コンゴなどで国連ボランテイアや国連難民高等弁務官事務所職員(UNHCR)として活動。南アの大学院でコンゴ紛争について研究し、2007年―2008年には、コンゴ東部でUNHCRの所長として勤務したこともあり、その経験を活かして現在アドバカシ―に力を入れています。